藝術は何のためにあるか 伊藤整
書棚にあった本で、自分がこの年で二胡に熱を上げているが、そこに何か意味があるかと思っていた時に購入していた本。最初の章が本のタイトルになっており、そこだけ読んで眠らせていた。
藝術論については、どこかでこの人の本に言及されていたので求めた記憶がある。古い本なので、古本屋だとおもっていて、何気にオンライン照会してみたらAMAZONのサイトが出て「お客様は、2017/7/1にこの商品を注文しました」と出てきた。便利といえば便利だが、そういう情報まで蓄積されているのかと思うと少しゾッとした。おまけに購入情報まで残っていて、本台は1円。送料・手数料257円で計258円で買っていた。
初版は昭和32年。この本は昭和44年の5刷版で480円。
1円で買って申し訳ない。中はこんな内容。
藝術とは何のためにあるか
創作と批評の論理
藝術の形式と秩序
正義感と芸術性
滋賀直哉の方法
川端康成論
チャタレイ裁判の意味
傍観者の権威
あとがき
前半の4章が総論で、後半が各論になっているように見える。
今日は三番目の「芸術の形式と秩序」を読んだ。タイトルは堅苦しいが、要するに社会構造により芸術に求められるものが違ってくるということ。
この本の書かれたころは、敗戦後しばらくという時期でソヴィエトのスターリンと中国の毛沢東が健在のころ。そういう世界では、社会秩序の維持に貢献することが求められ、一方自由主義社会ではピカソの抽象画に見るように、自由奔放な画風が現れた。これは組織(企業)優先の社会になってきて、人間性を訴えるというような意味があった、と解釈した。浮世絵の画風が西洋で評価された背景とか、宗像志功の画風とか具体的な記述がありなるほどそういうものかと思わせる。
そもそも藝術は、花に水をやるように人に水を与えるようなもの、と昨日誰か言ってたが、なるほど下手な芸術論より的確な表現かもしれないと思った。
ただ人が水だと感じるものは社会環境によって違って来るんだろ。戦前の日本の状況を含めて全体主義が席巻しているときは藝術は、政治利用されているだけのこと。本当に魂の叫びを表現したら拘束されてしまう時代があった。かつてのソヴィエトや中国についても同様のレベルに堕ちていたと考えられる。
体制による制約が無かったとしても、社会環境によって表現方法が違って来るのだという理論は成り立つかもしれない。
今は自由な表現が許される時代であるからして、その表現が共感を得られるかどうか、俗っぽく言えばどういう表現が「受ける」のか、が問題になってくる。
二胡の場合、伝統芸能の面と新たな分野を開拓する面とある。が、まず音楽の場合は技能が身についていて初めて自分はどうかと言うことになる。まずはそのレベルなので、自分のことはさておいとくことにするか。
さて世の中は、コロナの動向と、アメリカでまたまた人種差別事件について全国的な暴動が発生しており、トランプが軍で制圧することを考えているらしい。アメリカの人種差別問題は10年前と変わらない。Facebookの動画で、黒人の男性が16歳の男の子に「こうした抗議活動をしても制圧されるだけで何も変わらない、お前たちの世代で少しは変えてゆけるように、どうしたらいいか考えてくれ」と訴えている姿、それを受け止めようとしている少年の姿が印象にのこった。
日本の民主主義の有様も、今のままでなく改善が必要じゃないのか。