石牟礼道子一周忌
3月1日、座・高円寺で行われたイベントに行ってみた。
昨年、金大偉さんのイベントにやはりこの座・高円寺に行った際に案内を貰っていたものだ。金さんの話や、特に彼の書いた本に石牟礼道子氏と映画を作ったことが語られていて、興味を持った。そして、石牟礼道子の「苦海浄土」を買って読んでいるところ。
その映画が見られるというので行ったわけだが、申し込み先がいつもの金さんのイベントと違って早稲田の鶴巻町にある藤原書店となっていた。
今回のイベントの冒頭に、藤原書店の社主の藤原良雄氏があいさつをした。要するにこのイベントの主催者であり、石牟礼道子氏の活動を支えてきた出版社だった。
映画の方は、予想通り俳優が出るような普通の映画ではなかった。水俣の不知火海の映像と石牟礼さんの語りだけ。映画の全編ではなく一部だったようだ。それでも、水俣病が工場排水の水銀中毒と判明して、被害者の方々の切ない思いと、精一杯の行動が伝わってきた。
平和に漁をして暮らしていた人たちが、突然発病する。魚も捕れなくなる。
体が言うことを聞かなくなるが、頭脳が侵されているわけではないので、思ったこと感じたことが今までのように表現できない。こんなつらいことは無いだろう。そして治癒することがない。
企業の生産活動に伴う害。公害は足尾銅山から始まり、この水俣病。四日市喘息というのもあった。
先日、中国の留学生が書いた、日本の環境保全関する論文のことを紹介したが、その中には「公害」を克服してきたと整理されていた。
しかし、現在進行中の公害があることを指摘したほうが良かったかなあと、今更思うところがある。無論、原発事故による放射能汚染のこと。この被害は、発現するのに時間がかかるし、現在は事実が知らされていない状態にある。
このイベントは、文学とか藝術とかの視点からは興味深いものがあるが、社会問題そのもの、というか問題を起こす社会に対してどうするのだ、という問いかけが足りないように感じざるを得ない。
対談は、面白くなかった。詩人としての視点で石牟礼さんの文章表現のすばらしさを語るのは、それはそうかもしれないけど、せっかく公害問題を扱ったイベントをやっているのだから、on goingn の出来事に触れないのはどうかなと思った。
詩劇「キリエ・エレイソン~憐れみたまえ」というのもあったが、憐れみたまえ、憐れみたまえとつぶやくだけで、問題解決に向かう、あるいはそれを鼓舞する言葉がなかった。
芸術とは、直接的な表現をしないものなのだろうか。
被害にあった人たちに思いを馳せる、というための訴えは十分にできている。そのことにより二度と過ちを繰り返すまいと人々に訴えるとしても、欲に目がくらんで、同じ過ちが起こっている現状を放っておく手はないと思うがどうだろうか。