天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

藝術論は、社会論だった。

 「藝術は何のためにあるか」という本の紹介は、読んでいる途中で前に書きましたが、最後の章「傍観者の権威」という文章を読んで、驚きました。この人、伊藤整氏は文芸論者で小説家という認識でしたが生粋の平和主義者、平和論者だった。

 冒頭の章、本のタイトルにもなっている「藝術は何のためにあるか」の中でチェックしておいた箇所がある

ー法と礼儀は、芸術の批判を受けることによって、改めて、本当の生命の在り方を土台にして、考えなおされなければならない。秩序は常に被告であり、生命が原告なのである。

 この意味するところが、最後の章を読んで分かった。昭和30年代初めに書かれた文章なのに、今でも十分に同じことが言える。曰く、

ー日本の保守党は、ほとんど言論というべきものさえないのであるから、信頼することも、その裏を推定することもできはしない。彼らには道徳律もなく、まして人間愛などもない。あるものはただ権力欲と利欲の結びつきの実現だけである。

※この言葉、そのまま現在に通じる、それもそのはず、岸内閣の時代だった。日本が何の進歩もしていない。ただでさえこの戦犯を逃れた人間の孫で、三代目にはクズが出るというそのクズの時代が今。情けない。

 さらに曰く;

ー政党と営利会社とを問わず組織のある所には嘘がある、(中略)組織には真の意味の道徳的責任者がいないのである。組織はその目的を貫くために、それに属する人を置き換え、その主張、その道徳を、その時の都合によって訂正し、人間性を犠牲にしても進む。

※ズバリそうでしょう。今の政権と官僚の有様そのもの。

 伊藤氏は保守党(自民党)を批判しているからと言って、左派ということでもない。当時の社会党議員が自民党に買収されていたケースもあることを指摘し、共産党についてはぶれない点を認めつつも、組織の方針が優先することによる闘争にはネガティヴ。

ー民族、階級、国家等のいづれの幸福を口実とするにとしても、人間と人間の間の争いは、相手を滅ぼすことなく妥協することで終わるのが至上の道徳なのである。

ー争いが当事者の間で終わらない時は、人間性を土台とした妥協工作こそ最も神聖な行為となりうるだろう。

 そこでこの章の題の「傍観者」であるが、氏自身自らを中立者と位置づけ、それは時に傍観者とのそしりを受けることもあるが、人間性に根付いた判断ができる立場にいることを言う。

ー芸術家は、その人間性尊重の根本性格の故に、中立者としての正しい判断を下しえるものと思われる。

 と結んでいる。無論これは真の芸術家のことであり、それは世の中の有様を公平に見る目があり、人間の生きざまを観察してな何かを表現しようという人たちのこと。

 文芸の場合は、言葉で語られるのでわかりやすい。絵も、時代に即したものかあるいはそうでないものかを含めて作者の主張を読み取る見方がある。

 作曲の場合も同様に音の作りてであるが、その演奏ということになるとより技術的な問題になると思われる。美しい演奏とは、作者の意図を汲んで、そこに自らの気持ちを込めて演奏する。これも芸術家なんだ。

 話がそれるが、演奏家でも、オーケストラとなると途端にパーツになりきる必要が出る。組織で動く会社のようで、その場合コンダクター芸術家なのか。それで棒振りする人が芸術家扱いされる理由がわかった。