[本] 節分、&「国体論」白井聡
早や2月。如月とはなりぬ。2月3日は節分だった。各地で豆まきをする様子がTVやネットにも出ていた。お寺でも神社でもやってるところを見ると、宗教的行事ではないのか?が、日本の伝統行事ではある。うちでもちょうど孫リンが来て一緒に豆まきが出来た。孫リンは週末にパパと高尾山に登るというので、一足早く来ていた。
一人で来れるわけではないので、私が迎えに行ったのだ。ばあちゃんが夕飯作って待ってるよと言ったらあんまりうれしそうでない。パパが理由を正したら、その日は学校で面白くないことがあったので、好きなラーメンを食べて憂さ晴らししたかったみたい。なのにばあちゃんのごはんではまずラーメンは無理、と思ったらしい。
そこで連れ帰る途中で”一蘭”に寄ってご機嫌直し。高尾山行きは、実はそのあとふもとにあるトリックアートミュージアムに行きたかったらしい。そっちが本命。それを聞きつけた府中のユキピーがパパに頼んで参戦。
富士山は雲に隠れて見えなかったたしい。高尾山ならジイジも行くと思っていたらしいが、やや体調不良のため同行は見送った。次は行くぞ。
トリックアートミュージアムには二人とも満足して帰ってきた。
高尾山口まで二人を送ってから、かねて読みかけだった本を読んだ。それがこれ。
「国体」とは最近使われない言葉だが、天皇を中心とした国家体制というところか。自分は学生時代の不勉強を反省して、憲法の逐条解釈をこのブログを使って整理してみようと考えたことがあった。が、憲法9条までも行かずにすぐ中断した。その理由は天皇についてどう考えたらいいか、自分なりの整理がついていなかったからだ。
そこのところを考えるのに、この本はもってこいだった。
白井氏がこうした本を書くきっかけは、平成天皇(現上皇)が譲位する少し前に国民に向けて発した「おことば」がきっかけだったようだ。あのビデオメッセージは見ている。その前からメディアは、生前譲位が取りざたされていた。当時の法ではこれはあり得ないことでしたが、「このままでは天皇の責務が果たせなくなる」というお言葉を受けて、それが可能な法制化をして退位されたといういきさつ。
何気なくみていたときは、平成天皇自身がそろそろ退位した方がよさそうと宣言したのだくらいに思っていたが、その言葉の中で、いろいろと重要なことがちりばめられていた。らしい。そうした発言すること自体に白井氏は重要な意味を見出している。
明治維新から太平洋戦争の敗戦に至る国体と、敗戦後の復興から繁栄、そして没落にいたる間の国体の比較。類似性と違い。没落の要因はなにか。今何をしなくてはいけないのか。どうあるべきなのか。重くて簡単に要約してもすべてを表せない。章立てを紹介しておこう。
第1章 「お言葉」は何を語ったのか
第2章 国体は二度死ぬ
第3章 近代国家の建設と国体の誕生 戦前レジーム:形成期
第5章 国体護持の政治哲学 戦後レジームの形成期②
第6章 「理想の時代」とその蹉跌 戦後レジームの形成期③
第7章 国体の不可視化から崩壊へ 戦前レジームの相対的安定期~崩壊へ
第8章 「日本のアメリカ」ー「戦後の国体」の終着点
戦後レジームの相対的安定期~崩壊期
終章 国体の幻想とその力
敗戦時に、昭和天皇とマッカーサーの間で天皇制を残すことが決まり、日本はアメリカの傘下に入り、日本国憲法で天皇は「象徴」となった。平成天皇は、その「象徴」の意味を考えながら行動してきた。
戦後の国体の一番上に位置するのはアメリカだ。そのことに異を唱えた総理大臣は皆排除された。田中総理、鳩山総理など。そして安倍からアメリカの家来のように、米軍の補助部隊として自衛隊が位置するようになった。「国民統合の象徴」である平成天皇はそのことに不快な態度を示された。
最終章の最後の一文は「民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である。」とある。
つまり声を上げない民衆は民主主義国家に生きているとは言えない。天ちゃんでさえ、象徴として態度表明してきたつもりということだが、天皇制そのものはやがて消滅するものと見ているようだ。
安倍は銃撃ということでいなくなるべくして居なくなったが、その流れを継いでいる政権は、統一教会と創価学会の連立政権みたいなもので、はやくボコさないと、日本の没落に歯止めがかからない。
この本のアメリカの関連で考えたことはまた別途整理してみたい。