天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

平成最後のボランティアと「開平」の話

二胡でボランティアができるようになってきた。3月に横浜のホームで一度ボランティアをやって以来、二度目は地元のデイサービス。

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(写真は野バラさんのお庭のデイジー

 通いで来られるデイサービスが、私の散歩道の一つにある。いつもここで演奏できたら近くていいな、と思っていたのを実現した。散歩のついでに、思い切って訪ねてみて話をまとめた。求めよ、さらば与えられん。

 約束した日、二胡仲間の一人が付き合ってくれて、二人で約1時間。まず5曲演奏してから、6曲ほど歌の歌詞を配って、観客の皆さんに歌ってもらった。

 これが26日。平成最後の金曜日だった。そして平成最後の土曜日は、金さんのアートミーティング。

 これは金大偉さんが、中国各地の失われゆく風景を映像に残し、音楽と合わせたアート作品にする活動をしているが、その取材の様子を語ってくれる集まり。第6回とあるが、過去にはナシ族の東巴文字が残る地域のレポートや、満州族のシャーマンを取材したときのものに参加している。

 場所が今回から神保町のブックカフェとなった。

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 今回は場所が開平(カイピン)で、世界遺産に指定されたときに自分でも広州から、この不思議な彫楼を見に行ったことがあるので、金さんのレポートはとても興味深い思いで参加した。

 自分が行ったのはこのブログに記録があり、2008年の5月だった。 書いているのは2009年。あの頃、テレビ番組でもこの地が紹介されていた。

mm3493.hatenablog.com

 そして今回、金さんの取材の様子の話を聞きながら、こうした彫楼がどうして建てられたか、そしてなぜ誰もいなくなったのかという疑問が解けた。

 こうした建物は、多い時には3000を超える数が記録されていて、今も1800くらい残されている。建てれた時代は、初期は1300年代のころから、多くは300年前や100年前のものが残っているらしい。

 誰が建てたのかというと、以前聞いたことと同じで海外で成功した華僑が、故郷に錦を飾ったということだが、上に高い建物にしたのは、この地方は洪水などが多かったので、住居を上の方にしたことと、盗賊対策で頑丈な石やコンクリートで要塞の意味もあった。

 下の方の階の窓は、銃口としてあいているので、小さめの窓で、その数が多いと金持ちだったらしい。つまりその窓に張り付く使用人とか傭兵の数が多かったということ。

 建てられた時期、即ち華僑が帰ってきた記事は、アメリカやカナダで儲けすぎた華人を排斥した時期があった。そのころにここに戻った。

 そしていなくなったのは、1949年当時中国が共産党政権維になってから住人がいなくなったということだ。確かにこんな建物を建てるのは金持ちで、共産党が来るぞ!というので逃げたのだそうだ。建物の中は家具などがそのまま残されており、つい昨日まで人が住んでいたような状態で放置されていたのは自分も見てきた。

 と、このミーティングの翌日の夕方6時から、TBSでこの開平の番組をやることを聞いたが、見損なった。しかし、ここに一緒に行った友人が録画してあり、DVDを見せてくれるという。ありがたや。

 そういえば、自分も2008年当時に訪問した時に買ったDVDを持っていた。

 しかし、こうした変わった建物は、建てられたその時代の背景ととうじの文化があってのこと。人のいとなみではあるが、同じことが繰り返されることはない。だからこそ遺産として残しておく価値があるというものだ。