天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

実録アヘン戦争 陳舜臣

 都知事選挙は大して面白くない状況で終わったし、出かけるのもままならず、しばらくは本でも読むか、というわけで雪中読書第3段。

 またまた陳舜臣氏の本で、「実録アヘン戦争」を一気に読む。林則徐物語とも言えるが、アヘン戦争の頃の中国の様子が良く分かる。この出来ごとを皮切りにアジアへの列強の進出が加速されてくる。歴史教科書の視点ではなく、中国側の目線でこの頃の様子が良く分かる。
 元々中華思想というのは、中国では不足するものが無く、よって外国との取引は必要がないが朝貢するものには施しを与えるというスタンスだった。この時代、ヨーロッパではお茶を飲む習慣が定着したが、このお茶は元々中国にしかなかった。セイロンやアッサムで紅茶が作られるようになるのは比較的新しいらしい。
 英国は、中国からお茶を輸入するのに中国に輸出するものを持たなかった。貿易不均衡というやつで、その結果銀が中国に流れた。その為に考え出された方策がインドで栽培したアヘンを中国に売りつけるというものだった。その結果、貿易不均衡が逆転して中国の銀が流出することになった。これを憂慮した乾隆帝の命を受けて林則徐は広州に赴任した。
 当時中国国内にはアヘン対策についての議論が分かれていたが、林則徐はアヘン厳禁の強硬派であった。その彼が採用されて全権をまかされて事にあたった。彼は、広州沖にあった大量のアヘンを処分し、その結果イギリスと戦争状態に入った。英国は、武力でこの弁済と沿岸の貿易港の開港、そして香港の割譲を勝ちとった。
 林則徐は、この責任を負わされて新疆地区へ左遷となった。林則徐の後任もいるし、あくまでもお役所仕事の一環としてアヘン対応をしていたようにも見える。しかし広州には林則徐のゆかりの地として記念碑などがある。
 広州といえば仕事で滞在もしたのでなじみの土地であるが、当時は日本における長崎のように、唯一海外との貿易をする窓口だった。広州交易会というのも、そういった流れで今も海外との取引の場として続いているのだろう。次の中国旅行は、こういう歴史のゆかりの場所を訪ねる旅にしてもいいかもしれない。