3.11を振り返る
東日本大震災から12年が経過した。あの日のことは覚えている。私はまだ会社勤めをしていたが、この日は午後休暇にして目医者さんに行ってた。お茶の水の高いビルの伊藤眼科。21、22階でよく揺れた。この日のことはもう何度もブログに書いたと思うが、ちょっと思い出してみて、その後の自分と世の中の変化を振り帰ってみる。
最初にドーンと来た時は、広い待合室にいた。周囲の壁のロッカーの扉が開いて、中のものが飛び出ていたりした。東向きの広い窓からは、建設中の東京スカイツリーが見えていた。あれが折れるか、と思ったほどだがそうはならなかった。
いったん収まって、診察が再開されて、診察室に呼ばれて先生が機械を通して私の目玉を覗いているときに大きな揺れ返しが来た。先生と二人で目玉を覗く機械が倒れないように抑えていた。そこへ看護婦さんたちが何人か怖がって集まってきた。
とりあえず診察を終えたが、エレベータが止まっているので21階分階段を歩いて降りた。外に出てみると、歩道のコンクリートがひび割れていた。目の前にJRも地下鉄の駅もあるが電車は動いてない。
当時の勤務先は神田に有ったので、お茶の水からは割と近いが、会社に戻る発想は無かった。会社にいた人で家が遠い人は、事務所にとまった人もいたらしい。仕方がないので家の方向に向かって歩き出した。お茶の水から八王子まで歩けるとは思えなかったが、道路は渋滞しているし交通機関が無い。新宿駅まで歩くと、駅の階段に人がいっぱい腰かけている。電車の再開を待つ人たち。自分もその中に混じって待つ、という選択肢もあったがまた歩き出した。目論見としては、途中で自転車屋をみつけてママチャリを買って、家まで帰るというもの。自転車ならいけるだろうとおもったが、自転車屋には安価なママチャリが売り切れてない。誰も同じことを考えてるどうろなあ、そうだろうなあ。と思いつつ、また歩く。甲州街道を歩くわけだが、車の列はつながったままほとんど動いてない。
次は長男のアパートに行くか。当時長男夫婦が芦花公園にアパート借りて住んでいた。携帯電話で連絡を試みるが通じない。公衆電話で携帯にかけるとつながった。二人とも仕事から帰れないでいる。アパートの合いかぎを持っているわけではないので、どちらかが帰るまで近くの居酒屋で待つことにした。次男夫婦も当時はアパートで川崎の方にいた。やはり帰れないので芦花公園のアパートに来たらどうかと話していたが、小田急線が早めに動いたので彼らは家に帰った。
自分は居酒屋で待ってから長男のところに泊まった。
てことはまだ孫たちが一人もいなかった。息子たちは借家住まい。それが今は孫3人。二人ともローンを抱えながらも戸建てに住んでいる。家族的は恵まれているが、そういうことじゃなくて、この12年間で被災されたかたの生活も色々変わったと思う。
特に原発の近くにいて避難生活を余儀なくされた方たちは大変だ。世代と考え方によってその後の選択肢はさまざまのはず。もう福島に戻りたくない人。とにかく戻りたい人。できれば戻りたい人。戻った人。そのどちらの人に対しても国は、東京電力は満足な対応をしただろうか。
今、一番問題にすべきは、原発そのものの処分が満足にできていないのに、古い原発を再稼働させようと言う動きになっていること。
戦争に負けて、もう戦争しませんという憲法を作ったのに、また戦争できる国にして軍備を増強しようとしている。そういう動きと似たようなもの。
経済的な没落じゃなくて、こうした政治のモラルが落ち込んでいる。世襲議員とカルト依存の国会議員では知性もモラルもあったものではないな。
こうすればいいということが、ことごとくそうならない。
今日、どこかからフキノトウをもらったらしい。
これ、天ぷらにして食べたかったのに、佃煮にしてあった。ガク。