28 チェルノブイリの祈り
この本は、チェルノブイリ事故から10年たった時点で書かれている。
著者のスベトラーナ・アレクシェービッチは、チェルノブイリの爆発直後に消火にあたった消防隊員の妻。夫は重い被爆で亡くなっている。消防士たちは何も知らされずに普通の服装で消火活動をし、急激な被ばくで生きながら体の組織が死んでゆく、その様を見守らざるを得なかった家族たち。10年が経ってようやく書くことができた文章だろう。
単なる回顧録ではない。体験記でもない。チェルノブイリやその隣で、原発事故の放射能が大量に降り注いだベラルーシに住んでいる人々が、事故後の環境の中でどのように暮らしたかを示しながら、どのような受け止め方をしているかということを記している。人間としてどのように受け止めたのか、ということ。
ロシア人はみな哲学者ではないかと思うほど、事故後の放射線というものを冷静に受け入れている。受け入れざるを得ない状況に置かれていたといった方がいいかもしれない。
放射線のあふれている環境を受け入れざるを得ないことは、福島の人たちも同じだ。福島のことに関する本はすでにいくつも書店に並んでいる。自分も熊谷さんの著書で「ドイツ人が見たフクシマ」を読んだ。これは日本にいては見えない福島の原発事故が世界から、ドイツからどのように見られているかが具体的によくわかってよかった。ドイツにはまだ稼働している原発があるが、メルケル首相はいち早く脱原発政策を打ち出した。2022年までに段階的に原発を停止してゆくというものだ。日本は事故後、福島の放射能汚染の実態を国民に知らせないまま、首相自ら外国に原発を売り込み、老朽化で止まっていた原発を3か所も再稼働させている。この違いは何なんだろう。
違いというよりも、日本がどうかしている。どうかしているのはそれを推進している者たちだ。
しかし、この本はそういう社会情勢やあるべき論を語っているのではなく、原発事故を運命的なこととしてどう受け止めてきたか、過ちを繰り返してほしくないために語るといった本と読めた。
日本のフクシマの当事者の方々の心の中が整理されるには、やはり10年は要するだろうか。