天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

広島・長崎 今、伝えたい被爆の実相

 この本は、昨年出版された本で、中国語訳も並記されている。日中友好協会経由で入手した。

 別印刷でベンガル語もあるが、その言語で読む人は周囲にいないため、バングラデシュにカバンの工場を持つマザーハウスに4冊ほど届けた。ということなどをしたが、中を見直して認識を新たにすることあり、一言書いておきたい。
 本の構成は、13人の被爆者が自らの被爆体験を語る形式だが、最後の執筆者は肥田俊太郎医師。1917年の生まれで、被爆体験をし、以後多くの被ばく患者を診察してきた。今年100歳だが、残念なことに3月にお亡くなりになっている。Youtubeが残っている。
https://www.youtube.com/watch?v=6V7-LrMSOv8
 被爆体験はすさまじいもので、今まで幾度も伝え聞いていたが、ご本人たちの言葉で実体験やその目で見たことを知ると、これが戦争によって引き起こされた人災であり、本当に二度と起きてはならないことだ。



 先ごろ、国連で採択された核兵器禁止条約に、「被爆者の容認しがたい苦難と損害に留意し」という文言が入った。そのことに実際の被爆者の方や支援団体の方々は大きく評価する。書いてることはあたりまえのことだろうと思ったが、実は被爆者の存在が12年もの間、日本政府に認められなかったという事実があった。
 それは、原爆の人体への影響を世界に広く知らしめたくないという、当時ソ連と冷戦状態にあった米国の意図に従ったものだった。原爆による放射能障害などありえないという宣伝のために、被爆者の方は健保で医師の治療を受けることもできず、体の不調は「ブラブラ病」などと呼ばれて、社会から差別を受けることが続いた。1957年になって、原爆医療法により被爆者は国の費用で診断と治療が受けられるようになったものの、被爆者の認定は限られたものだった。
 福島の原発事故以来、今でこそ内部被ばくということが広く説明されるようになったが、当時は直接原爆の被害を受けた照明がなくては被爆者としての支援を受けることができなかった。原爆投下後に、救助や肉親の探索に広島に入って歩き回った人の多くが、残留放射能被爆している。その影響は、投下当時に広島にいても幸い物陰にいた人よりも大きいほどだ。
 被爆した人々に対する国の対応が不十分な中、支援団体などが運動を継続し、1995年になって原爆被爆者援護法が制定された。原爆投下から50年も経過している。
 そして2011年、福島の原発事故。今現在もその放射性物質は海を汚染し、溶け落ちた核燃料も放置されている。事故以来、現場で対応する人たちが何人も被爆し、命を失っているが、その実態は明らかにされない。
 そういう実態を放置し、「コントロールされている」とウソをついて日本は東京にオリンピックを誘致した。本当にこれでいいのか。経済優先の政策では国民全体の幸せが実現しないことを認識しない政府に、日本を任せておいていいのだろうか。
 目先を変えようと内閣改造をやったが、その中には発言は官僚の下書きを読むことにするというヤツがいて物議をかもしている。要するに今の政権では、その程度の人材しか集まらないということ。こうして書いていると気分が悪く、体に良くないので、散歩で見かけた花々の写真でもアップしておこう。