特に何もしない。そういう日があってもいいのではないか。
最近本で学習していることで、座禅だとかヨガだとか、心をからっぽにすることが、心の健康を維持するのにはいいこと、というのがある。そうは言いながらも、毎日の日課を決めていたり、毎週何曜日はあれをする日などと予定を立てている。
その合間の時間をぬって、本を読む時間を捻出して、などとアタフタしていると、充実しているようで心を空っぽにするとか、瞑想するような時間すら見つけるのが難しくなってしまっている。
この日記についても、書く時間を見たり、書く内容をあれこれ考えては、実際には急いで書き連ねて、後から入力ミスの誤字に気づいたりしている。
もう10月の遊びのお誘いが来ていて、これも予定に入れたりすると、また充実している風な日々を重ねることになる。そこで、それまでは忙しいのでという口実で、本当に大切な事をしない理由を作っているようだ。
何かしていないと不安になるのか。こういうのを貧乏性というのかもしれない。何もしなくっても生きてい行ける境遇を楽しんだらどうなのか。こういう毎日では、「さとり」とは程遠いのではないの?と思わざるを得ない。
今も、チラと時計を見ては、もうすぐラジオの「まいにち中国語」がはじまる時間になったかどうか確認している。
あるいは、このエネルギーを体系だてて使えば、なにかまとまったことができるのだろう。そんなことも、ゆっくり思いめぐらすとするか。
でもしばらくは忙しいので、落ち着いたら。などと言っているようでは救われない。こういうことに気づいただけでもいいか。