並はずれた愛情の持ち主
司馬さんの書いたもの(「以下、無用のことながら」)を読んでいて、近藤紘一さんを悼む文章に行きあたった。近藤紘一さんは、知る人ぞ知るベトナム戦争の実態を伝えたジャーナリストだ。
「並はずれた愛」というタイトルで追悼の文章が書かれているが、司馬さんの書くものに「愛」という言葉が使われているのはなかなか珍しいような気がする。
当然と言っては司馬さんへの偏見かもしれないが、恋愛に係る愛の話ではない。人類愛のことだ。近藤紘一氏のことを、そういう大きな愛情の持ち主であると評しているのだが、人類愛などという大げさな言葉は使われていない。「世界を人間の場としてとらえるという、ごく平凡なこと」をしていた人とされている。
この言葉にはぐさりと共感する。
近藤さんの中には国境は無かった。この人のことはまだよく知らないが、ベトナム人の子連れ女性を後妻に貰って、その娘はフランス人と結婚しているとか。
国籍は気にしないで、人を愛せる。こういう生き方に共感を覚える。
ところで、この追悼文が書かれたのは昭和61年。1987年のことで、随分古いものを読んでいる感じだが、この国境を意識しない生き方をする人は、その後増えているのだろうか。自分の身の回りではあまりそうは感じない。
一人、中国語教室で一緒だった元気な女性がオーストラリア人と結婚しているが、彼と中国その他アジアの地域を自転車旅行した経験があるらしい。多くではないにしろ、こういう若者がいることは期待できる。
我々も高齢者ながらもこういう感覚で生きることを是としたい。平櫛田中という彫刻家は、「六十・七十は鼻たれ小僧。男ざかりは百から百から。わしもこれからこれから」と語って、100歳の時に30年分の材料を買い込んだとか。ここまでではないにしろ、何事をするにもあまり年齢を意識しないで行きたいものだ。