施食会と墓参り
昨日は戸隠山のお寺(大昌寺)まで、父親の7回忌で合同法要に出かけた。前回合同の法要には一昨年に参加している。母親の23回忌だった。
法要が終わって頂く卒塔婆をお墓にもって行ったら、2年前の母のものが残っていた。今回の父のもの並べて立ててみると、二人仲良くあの世にいるのだな、という感じがした。
法要の際の催し物というのが毎回ある。前回は舞踏家の舞であったのが、今回は白馬村から日本思想史家という肩書の田中欣一先生の話であった。 先生は地元の思想家という感じで、いくつか本も書かれているようだ。80歳になられるとのことだが、かくしゃくとして話も上手い。あちこちで講演を依頼されるので慣れておられるのだろう。話のネタは色々と持っておられるようで、1時間の持ち時間のなかで、いくつかを披露された。
まずは小林久子さんの話。ヘレンケラーも感動したという手足の無い女性。ネットで調べてみると中村久子さんのことだった。ボケていない先生だったが名前をまちがえたのだろうか。結婚して、再婚もしているようなので、その関係だろうか。そのあたりはよく分からない。話の中で出てきた彼女の短歌と、もうひとつ見つけた歌。
「さきの世にいかなる罪を犯せしや拝む手のなき我は悲しき」
「手はなくも足はなくともみ仏の慈悲にくるまる身は安きかな」
はじめの歌に出てくる「さきの世」というのは前世のことで、仏教では人間は前世、現世、来世を生きるという。そしてこの時期のお盆というのは、来世に行った人々をお迎えしてひと時を一緒に過ごす習慣ということだ。
できるだけ、現世で迎える側にいたいものだが、いづれ惚けたり、寝たきりになったりすることもいやではあるが、その時が来れば受け入れなくてはならない事実だと80歳の先生は覚悟を決めておられる。しかし、そうならない努力はした方がいい、ということで先生は歩くことを推奨されている。いろいろな歩こう会を主催もされているとのことだった。なるほど、運動をしていればボケないというお手本が話をしているようだ。ゴルフ友達で80を過ぎてエイジシュートを連発されている方もそうだ。
そのほか、地元の善光寺の話。この寺は、比叡山や高野山が女人禁制であるのに対して、誰でも来られる寺。宗派も関係ない。拝観料も取らない開かれた庶民の寺であるとの説明があった。ナルヘソ、それで昔から人気があるのだ。