天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

風呂で本を読む人

 風呂で本を読む人がいる。風呂はぬるめの御湯で、長湯をするのが健康にいい。腰湯というのもいい。腰までつかるだけで、湯の温度が全身に伝わって汗をかくまではいっている。いづれにしても長時間湯船にいるので、その間本を読むというのは時間の有効利用でいい。いいことづくめだ。
 しかし、紙でできている本を風呂に持ち込めば濡れるではないか。どうやって読むのだ、という素朴な疑問がわく。やってみるしかない。本にはビニールのブックカバーをつけて、湯船のふたを半分とじたまま、乾いたタオルを敷いて本を乗せる。ページをめくる手をうっかり濡らさないように気づかいながら読んでいると、疲れる。濡れなくても、長時間そうしていると湯気で本が湿ってくる。
 風呂で本を読む人は、何か工夫かワザがあるのだろうか。と思っていたが、そのことが最近やっと理解できた。単純なことだった。本を濡れるに任せて気にしないということだった。これが分かったのは、そういう本を手にしたからだ。即ち、風呂で読まれたに違いないという本を読んでいるからだ。今読んでいる本は、文庫本6冊の長編を古本屋で買ったものだ。6冊まとめて縛ってあったので気付かなかったが、本は全て沁みていたり、紙が濡れて乾いて縮んだ跡があるのだ。6冊が6冊ともそのような本になっている。元の持ち主は風呂で本を読む人だったに違いない。ビタビタにしてしまった文庫本は使い捨てのようなものだと思うが、その人(元の持ち主)はしっかり古本屋に売っている。それを買うやつがいる。
 性分なのだろうか。自分は本を濡らして平気でいられない。お茶でもこぼそうものなら、大騒ぎをして水気を吸い取る。ものは大切にしなくては、という貧乏性なのだろう。
 本のページは、濡れて乾いてふにゃふにゃになっていても字は読める。特段問題はない。それによって、物語がつまらなくなったり、ふやけた内容になったりはしない。司馬遼太郎の「菜の花の沖」の内容はひとつも変わっていない。今日5冊目を手にしたが、やはりその形跡が残っている。
 文庫本も古本屋で流通するのもいいが、次の人に気持ち良く読んでもらうためにも、なるべく綺麗なまま読みたいと思うのだが、どうだろうか。