天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

「白狗秋千架」(白い犬とブランコ)

 掲題は、莫言氏の短編小説の題。これは映画「故郷の香り」の原作である。この映画は2003年制作の原題は「暖‐Nuan」という。暖というのはこの物語の主人公の女性の名前だ。
 「まいにち中国語」というラジオ番組の応用編は、中国映画のシーンを解説する形式になっている。それが今月からこの映画のシーンなので、つい原作を読んでみたくなった。
 そこで、アマゾンで調べてみると新品の在庫が無い。古本を買ってもいいが、本屋さんに行けば有るかもしれないし、図書館に中国の現代小説がかなり置いてあったのを思い出し、そこにはあるだろうと推測した。
 今日の午後から、予定通りメガネを作りに出かけたついでに本屋による。この本は新しい本ではないので、やはりそこには無かった。代わりに曽野綾子氏の「老いの才覚」を買ってしまった。この本が置かれている隣に、「戒老録」が文庫本となって売られていた。これは余談。
 そこから図書館に行って見ると、今度は予想通りちゃんと置いてあった。がしかし、家を出るときに図書館カードが見つからなかったので、借りれるかどうか。住所・氏名・電話番号でも言えば大丈夫だろうと思って、本を手にしてみると、それは莫言の自選短編集として出版された本だった。
 複数の短編が収録されている中の、メインの作品がこの「白い犬とブランコ」であり、本のタイトルにもなっている。図書館には、書棚の横に椅子が並んでおり、そこで静かに本を本でいる人たちがいる。私のお目当ては、短編集の中の一つの作品なので、それならとばかり、そこで読む人の仲間になって読んでしまった。
 まえがきが長くなったが、なかなかの作品だった。ものすごいというか、すさまじい恋愛の物語だと感じた。
 小説の方は男性主人公の側から書かれているが、暖のほうから言えばこうなるだろう。
⇒ 貧しいが、美人の多い村に共産軍がやってきた。時は文化大革命の終わるころだろうか。美人が多いと言うのは、映画俳優になるような美形もいるくらいの地域ということだ。その村の美しい少女であった暖は、ボーイフレンドのジンハーと中がよかったが、共産軍の隊長が彼女のことを気にいっていることを感じていた。村は貧しく、たったひとつ有った遊び道具のブランコも、資材とするために撤去されることになった。撤去される前の晩にジンハーは暖を誘って最後のブランコ遊びを楽しもうとする。暖は愛犬の白い子犬を抱いて。ブランコに座り、ジンハーが思い切りこぐ。と、古いブランコの綱が切れ、暖は飛ばされたはずみに横に植わっていた木の枝で右目をえぐられ、片目を失うはめになる。
 ジンハーはその後、大学まで進学し、町で教師になる。その彼が12年ぶりに故郷に帰ってくると、家畜のえさになるコウリャンの葉を山ほど背負って、背中が折れ曲がりそうに歩いてくる農夫と出あう。近くに来てその髪が長いのを見るまで、それが女であることすら気付かななった。その農婦の着ていたのは当時男女の区別なく作られていた人民服の古いものであった。白い犬を連れていた。彼女は川のところまでくると、上着を脱ぎ、ボロボロのシャツをめくって川の水で体を洗う。大きな乳房が垂れている。暖だった。右目のところがくぼんでいる。
 彼女は片目を失ってから、片端者として扱われ、聾唖の男のところに嫁がされる。当時の中国の習慣では結婚の相手は親が決める。その後一人っ子政策が始まるが、暖は三つ子の男の子を出産する。三人とも父ゆずりの聾唖者だった。最貧困の上に不幸の塊のような生活を送っていた。そこへ昔のボーイフレンドが現れたのだ。
 ジンハーは暖の家を訪ねる。聾唖の夫は暖を激愛しており、ハイカラなジーンズをはいた男が来ただけで不愉快になるが、彼が暖の知り合いで学校の教師だと分かると、態度は軟化し酒を一緒に飲んだりする。
 暖は、ジンハーを家に残したまま、町に子供たちの服を作りに行くからと言って、黄色い生地を持って出かけてしまう。ジンハーはしばらく、その夫といたが帰りの遅くなるであろう暖を待たずに帰路につく。畑の一本道を歩いて川のところまで来ると、暖の白い犬がいる。犬が吠えて、コーリャン畑の中に入ってゆくので、ついてゆくとそこには暖がいた。ジンハーを見ると、黄色の布を敷いて横になる。右眼には義眼がはめられており、整った顔立ちになっている。着物も野良着から着替えている。
 暖は、自分から去って行ったジンハーを決して恨んだりしていないと言う。自分の運命を受け入れているが、三つ子の子供たちだけは健常者であることを願ったがそうではなかった。せめて、五体満足な子供が欲しいとジンハーに体を預けようとする。
 物語はここで終わる。中国のすさまじい貧困がベースの話でありながら、やはりこれは一つの男女の愛情物語だ。これに類する事実はいくらでも現実に有ったことと思う。なんともやるせない現実。その現実の中で、男と女は愛を確認しあうのだ。