天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

16 半生縁 上海の恋 張愛玲

 中国語で「愛迷」(アイミ―)という言葉ができるほど、ファンのいる作家張愛玲を知り、かねてよりその作品を読んでみたかった。愛迷とは、張愛玲の熱烈なファンという意味だ。

 ただ、日本ではさほど知られているとは思えないし、その作品の邦訳版もなかなか出回っていない。なので、この本は図書館で借りた。さすがに図書館にはこれと「傾城の恋」が置いてあった。傾城の恋の方は、映画化もされている。
 半生縁を借りたときに、中国語の先生(中国人女性で日本に帰化したらしい)に話したところ、当然知っていて、張愛玲は日常的なこと、日々あることを書いているというような評価をされていた。その意図するところは何か、日本語表現の問題もあるので、とにかく自分で読んでみようと思った。
 張愛玲にしては長い小説。時代は日本侵略のころ。部隊は上海と南京。モデルになっている人たちは、小資本家階級か。ひところプチブルという言葉で呼ばれた階級。であるが、家が落ちぶれたときには家族のために身を落とす姉というのがいたりする。
 時代背景が日中戦争前後であるので、日本軍の悪事も書かれているが、それは一つの災難としてあるなかで、主人公の実らぬ恋物語が、いかにも中国的な人間模様の中で描かれている。
 翻訳者(方蘭ー本名 吉田とよ子)の解説よると、「張愛玲が小説を通して表そうとしたものは、このような立ち枯れの木々に対する限りない哀傷であった。土壌に浸透する濁り水は最初から濁っていたのではない。実は木々自身の排泄物によって濁ってしまったのだということを、彼女は知っていたのである。」とある。
 ここでいう立ち枯れの木々とは、生きるために頑張ることは、偽善、傲慢、憎悪、嫉妬、暴虐、利己主義という泥水を吸い上げていく、そういう小資本家階級であり、その悲しさを描いているということだろう。
 張愛玲自身、その自己的文書と題する文の中で、「文学に携わる人々の多くは人生の激動的な面にのみ心を向け、平穏な面には関心を払わないようである。しかし実は後者は前者の基底なのである。・・・すぐれた文学作品は人生の平穏を基底にした上で激動の面を描いている。この基底を持たないとき、激動は泡沫のようになってしまう。」と書いている。
 中国語の先生をして「日常的なことを書く」と言わしめたのはこういうことだったのだ。その中身が人生の悲哀。とりわけむつかしい時代の恋にかかわる人のありかたの悲しみが書かれている。
 あらすじを書かなかったが、日常的なことなので・・・。