歴史観
曇り空の休日。団地の一斉除草を終えて、缶ビールで休憩したあと、積み上げてあった日中友好新聞の整理をしていたら、ふと過去の記事が目についた。
「誤った『歴史観』広げる恐れ NHKドラマ『坂の上の雲』を考える」という見出しで、奈良女子大学名誉教授の中塚明さんが書いておられる。
さて、何がどう問題なのかということを思うと、坂の上の雲が描いている時代は日清戦争から日露戦争の時代。日本の戦争勝利が続き、中国に対して欧米列強の仲間入りを果たした時代と言える。そのことが、いかにも日本の血気盛んな有能な青年たちの生き様の部隊として、肯定的に書かれていることだと思った。それはそれで、間違いではなく、そういう面で司馬史観というのは気をつけなくてはならないのだろう。
そして、この記事に書かれているポイントは、中国の手前、日本との間にある朝鮮半島の問題だ。実に今年は朝鮮併合以来100年の年に当たるのだ。当時、明治維新以降の日本は、他のアジアの国々のように欧米の列強による植民地化を回避し、自主独立の国家として存続するために、朝鮮の犠牲にしてきた。そのことを正しく見ないで、他国を犠牲にすることがやむを得ないこととして、正当化しているところがいけない。というのだ。
こういう風に具体的に描かれると、やはり司馬遼太郎の歴史観は鵜呑みにしてはいけないという主張がよくわかる。ある意味、「坂の上の雲」は所詮小説なのであって、歴史書ではない。しかし、司馬氏の書きぶりは歴史の解説書であるかのごとき説明的な部分があり、初めて読んだときにはこれが小説かしらという異和感すら覚えたほどの文体だ。
それやこれや併せて考えると、佐高信氏のように司馬批判的な文になってくるのであろう。
100年というのは、ついこの間のことだ。自分の年齢の倍にもなっていない。まして、三国志だとか中国の歴史などを読んでいると、100年は短い。近現代史ではないか。中国でいえば辛亥革命からやっと100年になろうとしているのだ。それなのに、そういうことに自覚の無かった頃の自分は、仕事上でお付き合いをしていた韓国の人に対して、随分無神経なことを言っていたものだと、反省しきりである。
人としての節操を保つためにも、よくよく学習は大切なものだと、今更ながら感じる今日この頃である。