天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

物が無かった頃

 物が無かった頃、僕らは不幸だったろうか。狭い家に親兄弟と住んでいた頃、僕らは不幸だったろうか。そんなことは無かった。
 あの頃に比べて今は、あの頃ならご馳走と呼ぶべきものを毎日食べて、毎日お風呂に入って、そのお風呂もあの頃は薪を燃やして焚いていたのが、今はボタンを一つ押すだけになった。そして自家用車を運転し、それはそれは清潔で便利になったものだが、この生活の変化、便利さの向上と同じだけ、同じ比率で幸せが増しただろうか。それは別のことのような気がする。物の豊かさによる便利さと幸せは別のもの。
 同じ社会の中で、格差があるのは不幸だ。幸か不幸かは格差の問題だろうか。あの頃、不幸ではなかったのは、皆同じような生活をしていたからだろうか。少数のお金持ちは別の人たちで、自分の生活には関係が無かった。お金持ちの親が偉くて、自分の親は偉くないなどとは思わなかった。父親は権威があり、母親はやさしかった。
 ある時点から親の考え方が古いと感じて反抗的になっていたことはあった。今となってはその理由がよく分かる。ような気がする。自分の親は自分とは違う時代に育ち、見るもの聞くものが違っていたのだから、別の時代に育った自分と考えが違うのは当然で、仕方のないことだったのだ。そういうことも含めて、当時不幸であったか。そうでもない。毎日一生懸命だった。
 戦後の混乱が終わった頃に生まれたので、社会全体が豊かではないが平和な状況だったのだろう。まだひどく貧しくて、学校に来れない友達を学校帰りに立ち寄って「明日はおいで」と誘いに行ったりしたものだった。その後高度経済成長といわれた時代の中で、頑張れば頑張っただけ幸せになれると誰もが信じて、家族のため、自分の為に頑張ったのだ。
 今はどうか。勝ち組、負け組みなどという言葉がある。その差はどこから来るのかよく分からない。合理的な、納得のいく勝ち負けなら仕方が無いが、うまくやったほうが勝ち、下手だと負けというのはあまりよろしくない。タイミングだけで先が決まる社会もいい社会ではない。正当な努力が報われなくてはならない。ズレた努力や、辛抱が足らずに負け組み宣言で不満を言うのはよくない。
 今は、物はある時代だ。配分の問題なのだ。適正な配分が出来る社会を目指す経済学って無いものだろうか。