天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

格差社会のもたらすもの

 中国の経済力は、農村と都市の格差に負うところが大きかった。この構図ももはや難しくなってきている。人民は差のあるままの状態を是認したままでいるはずがない。公平ではないからだ。
 一方、日本は構造改革、小さな政府、民営化路線のおかげで格差社会になってきてしまった。その格差というものは、中国のように日本の経済力になるであろうか。答えは否。なるわけがない。中国のように、先に富める者が出ることを認めた社会は、遅れた方もついて行くべく必死で頑張ることで、全体としての経済向上に貢献してきた。が、日本の格差がもたらしたもの、即ち多くの人を低賃金の労働者にしてしまったことがもたらしたのは、大企業の富を増やすという結果だけであり。人々の生活には何ら貢献していない。負け組と言われる方は望みのない暮らしを強いられる。
 戦後、経済が右肩上がりの頃は、賃金は毎年増えるのが当然と皆思っていた。そういう時代を経験した後での格差社会の到来は、何物も生まない。格差から抜け出る道筋が示されない。運のいいものと、アンラッキーなものとの格差という印象が強い。努力の甲斐ということもあるであろう。しかし、一度アンラッキーなポジションに陥った人のリカバリーは難しい。それこそ、再起を可能とする社会システムがあればいい。日本にはそれは用意されているとは言い難い。
 経済活動の要素は、物の生産、流通、消費ということであろうが、これは人間の存在あっての活動。人口が減りつつある日本では、これらの活動が維持されていても総量で減少するのは自然の流れ。減少することが何か問題だろうか。経済大国の看板が誰に必要なのか。
 冷静な北欧の国々を見ると、人間中心の社会ができている。中学生の頃、初めて通った教会の牧師はスウェーデン人だった。なぜスウェーデンの人が日本にまで布教に来るのだろうか。あの頃は分からなかった。あの頃はスウェーデンと言えども今ほどの福祉国家ではなかったのではないかと思う。しかし、民度の高さが今の社会を作り上げたのだろう。あの頃から、海外への布教を使命と感じて活動する人がいたわけだ。やはり、学習であり教育が必要なのだ。
 以前見たテレビ番組では、中国とスェーデンの人々を多くの外国人や日本人がとり囲んで、その光と影を真っ向から論じていた。オープンな会話で面白かった。くくりはこんな会話ができる日本はまだ望みがある、ということだった。そうとも言えるが、政治の迷走ぶりはどうにかならないのかと思う。