天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

 大施食会法要

 毎年、お盆が終わったこの時期に長野の戸隠にある大昌寺では、合同の法要が行われる。ウチの両親と父方の祖父母、叔父などがお世話になっている山奥の寺だが、年忌に当たる年は出かけて行く。日頃ご本家に世話を任せっきりのお墓参りもする。
 今年は今日がその日で、母親の27回忌にあたる。戸隠の山奥も昔に比べると道路事情が良くなり、日帰りで行けるようになった。それならもっと頻繁に墓参りに行けよ。と思うのだが、こういう行事でもないとなかなか。親不孝なヤツだ。
 この法要は、お経の前にいつも出し物が出る。毎年趣向が凝らされていて、仏教にちなんだ伝統芸能だったりする年もあるが、今年はよそから出張で来られたお坊さんの話だった。あまり華やかな出しものではない。しかも坊さんが遅刻して来て、つなぎに別の坊さんが何か話しをしていた。
 今日大して期待できないな、などと失礼なことを感じながら話を聞いていた。話は良寛というひとはどういう人だったか、というテーマで、一茶や一休さんが引き合いに出されていた。ますます大して興味を引かれることも無かった。が、まとめに昨今の情勢に話が及んだ。話題は日本国憲法のこと。一体何を語られるかと思ったら、次のような話だった。
 我々は戦後今の平和憲法を守ってここまでやってきた。これを変えようと言う動きがあるが、「平和憲法」と呼ばれるものを変えてしまって一体「何憲法」と呼ぶものにしたいのか分からない。そして第9条に触れて、軍隊を持たないで戦争を禁止してきたことを見直し、国防軍を認めようということはどういうことか。いかに国防目的と言えども軍隊を持つということは、戦争をすることを前提にしている。これは仏教の立場からすればあり得ないことで、日本が仏教国であればこのような論議自体が有り得ないことだ、と話された。他国から仕掛けられることがあったら、良寛さんのように逃げ出してしまえばケンカ(戦争)にはならない。というオチで良寛さんの話と結び付けて終わった。
 急に遅刻してきた坊さんが偉い人に見えた。実際、こういう庶民の集まる場ではっきりとこういう話をできるのは偉いお坊さんに違いない。その方は、長野市吉田洞仙寺小山義雄老師と言う方で、講話が専門で呼ばれれば全国どこにでも行く、と話されていた。今日のような話を全国でお願いしたい。
 そして、はじめにつなぎを引き受けた別のお坊さんも閉めの言葉で一言。
 このお盆の時期にご先祖様が帰ってきて、現世の人達にこんなお叱りを授けるのではないか。即ち「今のあなたたちは自分たちのことばかり考えて生きてやしませんか?昔の人は、子子孫孫の先の世まで考えて今の自分の身を慎んで生きていたものだ。」
 ズキン!これは原発批判そのものではないか。核燃料のゴミを先の世代の問題に残して、自分たちは原子力エネルギーを使って便利な生活を維持している。自分勝手な世代だ。お坊さんの口からは、原発という言葉は無かったが、わかる人にはわかる。分からない人も多かったかもしれない。もっと時間があれば、分かるように話してくれたかもしれない。
 母親もいいお坊さんたちに供養してもらった。いい日だった。