「新約聖書を知っていますか」 阿刀田高著
昨日は天気予報通り雪だった。成人式の日に雪が降るというジンクスめいたものが今年も当たりだった。おかげで家に閉じこもりを決めて、日がな一日本を読むことができた。読んだのが阿刀田さんのこれ。
素敵な本だった。少年の頃通った教会を思い出しながら読んだ。著者は信者ではないと繰り返し言いながら、この聖書の登場人物たちに対する深い愛情が感じられた。あ、キリストは「人物」ではなかった。神様あるいは神の子でした。ともあれ阿刀田さんは奥さまがキリスト教徒で、これを書いてからもうずいぶん経っているので、もう今頃キリスト者になられたかもしれない。
読んでいて昔聞いた話がよみがえったことがある。それは「パウロなければキリスト教なし」と文中に書かれていることだった。パウロはもともとユダヤ教徒で、その中でもパリサイ派と呼ばれる厳格な律法の支持者だった。そのパウロによみがえったイエスが直接声をかけ、奇跡をおこなって改宗させた。以来彼はキリスト教の布教のために各地を旅するようになった。
それがなぜ「パウロなければキリスト教なし」なのかと言うと、もともとイエスの出現する前にユダヤ教があって、そもそも同じ神様を拝む。形式化したもの形骸化したものを捨てて愛の尊さを教えようとしたのがイエスだった。なのでその流れで行くと、イエスとその弟子たちもユダヤ教の一宗派とみなされてしまったかもしれない。
ところが、ガチガチのユダヤ教徒で、彼らから見ると怪しげな新手のキリスト教徒を迫害するほうにまわっていたパウロが、イエスの教えの何たるかを知り、ユダヤ教ではなく新たな教えとしてキリストの教えを説いて回った。そのことで、明確にキリスト教はユダヤ教とは一線を画した新しい宗教として確立した。
彼以前の教理は、もともと比喩的な言い回しが多く、教理として確立されたのもパウロのおかげということだ。
で、そういう事実を踏まえて、現在の人々の動きを振り返るに、原発推進にやっきになっている人が神の啓示を受けて、「私は間違っていました。これからはいかに原発を無くしてゆくかについて努力します」と鞍替えしないかな。そういう人がいると、強力な原発反対活動家になるはずだが。