天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

キュッキュッキュッ

 夜9時頃に、帰宅のために電車に乗り、発車待ちの時間にまわりからキュッキュッ、キュッキュッと音が聞こえ始めた。どうも周りの人たちが持っている携帯電話が鳴っているらしい。ははーん、これが地震警報かとすぐに気付いたが、自分の携帯電話は静かにしていた。何か設定をしておかないとそうならないので、自分のは設定をしていないのだろう。しなくてもこれだけ周りがキュッキュッ、キュッキュッと鳴りだせば十分に分かる。
 鳴っている電話を持つ人たちの様子を見ていたら、少しも慌てる様子がない。確かにすぐに反応して騒いでも仕方が無い。冷静にまた携帯で震源地やゆれの大きさを確認している。この様子はなんだ。日常生活に地震が起きることにすっかり慣れている。
 地震国日本に生まれて育ってきたのだから、慣れてくるのも当たり前かもしれない。しかし、昔はもう少し揺れるたびに周りの人たちはもっと反応していたと思う。当時は体感する地震の頻度が今より少なかったので、揺れることがめずらしかったのかもしれない。本当に頻度が増えてきたのかどうかは知らないが、最近の人々の冷静沈着度合いは、あれ?と思うほど。
 地震だけではなく、放射能に対しても冷静になってきたように思う。今日は箱根仙石原の野焼きが行われたというニュースを見たが、放射線量が基準値を下回っていたので実施したとの解説があった。集まっていた見物客も冷静にそういう状況を受け入れて見に来ている。
 落ち着きを取り戻した、といえば言えるのかもしれない。が、実は箱根においてさえ今だに放射線量を気にしながら生きていなくてはならないという現実をもっと重く受け止めるべきではないか。そして国が勝手に決めた基準値などというものを信用しきって行動していることに、はてな?を感じる。
 良心ある学者は、放射線量が少ないから安全ということはない、とはっきり言っている。そのことは何度も聞いた。少量でも体内に次第に蓄積してゆくことで、影響が出てくるということだ。
 危ないものは危ない、いけないことはいけない。危ないことに慣れてしまって、冷静に煮えるほどにリスクに鈍感になってゆくのが怖い。のどもと過ぎれば熱さを忘れるということでは、いざという時の被害が大きくなる。
 放射線に関しては、危ない状況にいることを忘れないでいることが大切。「忘れないでいる」ということの大切さはここにもあったのだ。