天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

「哀歌」その2

 哀歌という小説は上下2巻の長編だ。上巻は前回書いたように、ルワンダの内戦、大量殺りくの実情が修道院の日本人修道女の目から描写されている。下巻はその続きであるが、舞台はその修道女が日本に帰国し、その後の様子になってゆく。
 後半の主題は、前半のあまりにも残虐な実態描写から、もっぱらキリスト者の生き方を問うというか、見せつけるような内容となっている。
 そもそも小説の題である「哀歌」という言葉は、旧約聖書の哀歌からきている。聖書のなかでのこの哀歌の位置づけは、歴史的には民族が滅びゆこうとするときに感じる悲哀の歌という形であろうか。その悲哀の歌を通して運命を受け入れることを、キリスト教的愛の世界で容認し、褒め称えているのであろうか。
 聖書そのものを歴史書として学習したことはないし、他人に聖書を語れるようなキリスト者でもないので、この聖書の哀歌についてのコメントは控えるとして、この小説「哀歌」としては運命を受け入れることの壮絶なまでの覚悟、というものが主題として見えてくる。
 しかし、後半の顛末はあまりにも小説的ではないかと思わないでもない。主人公が内戦に翻弄される修道院から脱出するときに、急に現れて以後の彼女の生き方に決定的な影響を与えている男。これは何だろう。あまりにも強い存在として描かれており、フツーはそこまでの人はいないだろ、と思わせる。小説だからいてもいいのだろう。事実は小説より奇なりという言葉からすると、このあり得ないと思う男より更にあり得ない行動をする奴がいるかもしれない。
 運命を受け入れることの決意の潔さというと、イスラム教徒の女性が日本語で書いた小説を思い出す。「白い紙/サラム」という題の本だった。「『サラム』と言うべきだ」という表現が思い出される。
 戦乱の続く中東の国から来た、けなげな留学生少女が動乱の国に帰れば命が危険にさらされることを承知で、日本で甘えることをしないで帰国するシーンで、この言葉が母の教えとして出てくる。
 小説哀歌の中にもあったが、日本人は要求と不満ばかりを主張するようになった。その風潮の中で、運命を受け入れることの心の平安、これなのか。これが心構えとして大切なのだろうが、現実社会をよくするための活動をすることも同様に大切だとう思うのだが、どうだろうか。
 ところで、ルワンダといえばルワンダの内戦で足を失った人たちに義足を作る活動をしている真美さん。ルワンダ人と結婚している。こちらは小説ではない。現実だ。支援をひとつよろしく。
http://oneloverwanda.blog105.fc2.com/