天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

経済学的学校

 学校を経済学的に見るということは、考えてもみたことが無かった。しかしそういう見方があったのだ。昔、ガキの頃は何も考えずに地元の学校にゆくものだった。ちょっとできるとか、お金持ちだったりすると「付属」という学校に進学したものだ。庶民として義務教育を終えると、高校から「いい学校」に入れということで、受験勉強をした。
 いい学校とは何ぞや、ということは当時は、有名校。何で有名かというとスポーツとか芸術とか本来色々あるべきだが、高校であれば大学への進学率が高いところ。それもいい大学にというのが一般的だった。要するに日本は学歴社会なので、将来格差社会の中でいいポジションにつくために、学校から競争をしていたわけだ。
 ともかく、学校の存在意義は云々という話だが、小中学校においては人間の教育の場であり、高等教育の場、殊更大学の存在意義は、学問そのものの追求と、専門教育であるとのこと。しかり。そうなのだが、かつての大学は社会人になるための訓練段階、モラトリアムと言われていた。今もその様相を呈している部分が多分にある。
 たしかに、自分は大学で何を学んだというよりも、よき友、よき先輩を得て。ネームバリューで社会に出て、その流れでここまで来てしまった。生活が成り立ってきたからいいか、子供が育ったからいいか、ということで自分の人生を是として自己満足する人は多い。それでいいのだろうか。ほんとうにいいのだろうか。
 あ、話は大学のこと。専門教育の場としての大学はそれなりに機能している。医者や弁護士などの専門職についている人たちは、大学で専門教育を受けたわけだが、問題は大学へ入る時点で、医者の息子は医者を継ぎ、社長の息子は社長を継ぐように大学も金次第という面があり、格差を助長する場でもあるということらしい。そういうのもいるが、苦学して身を立てたという人たちもいる。
 中国でも今や学歴社会。特に農村から脱出するには学歴をつけなくてはというので、一族郎党から莫大な借金をして大学に通う子たちが多いと聞く。中国は人口が多いので皆が大学へ行こうとすると狭き門だった。そこで改革開放で、金儲けが認められると今度は大学が沢山できてしまっている。そして大学を出ても就職が困難という時代になっているらしい。日本で、もはや死語だが駅弁大学といわれた大学ではどうしようもないということがあったが、中国もそうか。
 経済学的見地から、本来の大学のありかた、ということを少し垣間見てフームと思って書き始めたが、あまりに現実がガックリなので、本題からはずれてしまった。