コマーシャリズムと消費社会
しばらく前、プロポリスというものが喘息だか鼻炎だかに効く、と気功の先生に教わって飲んでいる。それなりの効果は出ている、と信じて飲み続けている。液体で、夏の暑い中ではベトベトしてくるので冷蔵庫に保管するようにしている。これはネットで買ったのだった。
今日久しぶりにAmazonを開いてみると、プロポリス・キャンデーという宣伝が出てきた。おっ、こんなものが有るのか。これならのど飴とプロポリスの両方の効果があるぞ、とばかりに買い物かごへ。単純でいい性格をしているとすぐに買う。ここで一旦待って、発注はしていない。
この行動って、すっかり企業の思うつぼ。「さようなら、消費社会」と言う本をチラチラ読んでいると、こういうことで一般庶民は消費拡大の流れに無意識のうちに載せられている、と言うことが書かれている。消費の拡大を続けることで限りある地球の資源を早く枯渇させてしまう。循環型の継続性のある社会には程遠い。
必要以上に多くの、華美で、贅沢な消費をする金持ちになることが人生の成功であるかのように思いこんでいる人間がなんと多いことか。そういうものを志向することで格差も生まれる。適度な差が存在することは、努力するモチベーションになる場合もあるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。人が努力する動機と言うのは、そんな薄っぺらなものでいいのだろうか。いい訳がない。
それでいいはずも無いのだが、そんな人間が多いのは、そのように宣伝されて来ているからだ。自分で物事を考えて判断するよりも、マスメディアが皆に伝える「いいもの」を手にすることで満足する。そうではないでしょ、とばかりにそんな流れに待ったをかけようというのが「カルチャー・ジャマー」というのだそうだ。
しかし、プロポリス・キャンデーは口にしてみたい。そういうものが有ること自体、ネット上の宣伝を見ないと知らなかった。より多くの情報を得ること自体は悪くはない。取捨選択が必要。が、それをする暇を与えない程に現代のメディアは、手を変え品を変えて一般庶民を洗脳しに来る。そこで儲かるのは売り手の企業と言うわけだ。
キャンデーの購入をめぐって考えすぎないようしたいが、消費社会の流れに浸かりきっている、自分を含めた人間どもをなんとかしたほうがいいとは思う。