天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

阿部一族

 この日記を見てくださっている方、お二人から「阿部一族」のことを伺ったので、早速これを求めて読んだ。森鷗外の文庫本は、街の本屋には常備していない。むしろ古本屋の方にある確率が高い。この本もそうだった。
 ともあれ、この阿部一族の話が出たのは、私がダニエル・スチールのMaliceという小説の書評を書いたときだった。何が共通点なのかというと、簡単に言ってしまえば、不幸を絵にかいたような出来ごとの連続、あるいは周囲の思惑や悪意に翻弄されるといったことだろうか。
 ダニエルの小説の方は、どんなに大変なことが連続しても、彼女らしく最後はハッピーで終わる。そこへ行くと、この阿部一族は不条理な出来事が淡々と述べられているように見える。当時の武士社会のアホらしさのようにも思える。ここまで、義理とか面子を重んじて、主の存在は絶対なのだ。今のサラリーマン社会に照らしてみると、大分このような現象は影を潜めていると思われる。
 当時の日本の社会を思うと、このアホらしさ自体が武士の社会生活だったのかもしれない。即ち、「殉死」という死にざまを栄誉あるものとしている。これが今では「ありえなーい」という反応を得るものになっているが、当時の人たちは真剣だったのだ。
 思えば、昔の権力者の墓には周りにその家来などが共に埋められていることが多い。これが殉死のルーツなのだろう。
 殉死といえば、司馬遼太郎の小説に乃木希典を題材にした「殉死」という小説があった。この頃まで、即ち乃木希典の時代までは、殉死が美化されて語られるような社会だったのだろうか。
 「死んで花見が咲くものか」という言葉の方が私は好きだ。生きていてこそ何かができる。恥辱にまみれたとしても、死んで恨みが晴れるものでもない。死ぬ時は神が決める。世の中のアホらしさ見ながら、次世代にアホらしいことをしないように伝えることが大切ではなかろうか。