天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

留用

 日中友好協会の八王子支部で、八路軍従軍看護婦をしていたという方がいらっしゃる。その体験談を座談会形式で聞いたこともある。そういった経験をした人たちはずいぶん大勢いらっしゃるようだ。先輩に借りたDVDで「留用された日本人」というのを見た。
 「留用」と言う言葉は日本語にはない。ワープロで「リューヨー」と入力すると「流用」が出る。これは本来の目的外に使うことというような意味だが、留用の方はその字のとおり、留め置いて用いるということだ。
 日中戦争終了後に国民党と内戦を継続していた共産党は、農村を基盤としていたため医師や看護婦が不足していた。そこで帰国待ちの日本人の中から、そういった仕事に役立ちそうな人たちに協力を要請した。協力要請といっても、敗戦国の国民相手であり、半ば強制的であった。
 医療関係の他、当時共産党には空軍が無かったため、空軍の立ち上げにも日本人の元航空隊員が駆り出された。この空軍は実際には国民党と戦うことはなかったらしいが、1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典の日に北京上空他各地で、晴れがましく祝典の飛行が行われたということだ。
 こうして当時中国に残った人たちは、大半がその後役目を終えて帰国されているが、皆一様に当時の経験を肯定的に語る。当時の中国には、日本の軍隊に親兄弟を殺されたという体験を持つ人が大勢いた。そのことで今も日本人のことを「日本鬼子(リーベンクイズ)」と言う言い方が残っている。しかし、実際に日本人と接した人たちはお互いに信頼関係ができたようだ。日本に戻った人たちはまた中国で仕事をする道を選んだり、一段落したときに中国を訪問して当時の友人達に会いに行ったりしている。
 そういった方々は、終戦時に若い働き手であったので、年齢的にはもうかなりの先輩だ。我が日中友好協会八王子支部も会員の年齢層が高い。中には類似の経験をお持ちの方が他にもいらっしゃるカモしれない。生まれが満州で引き揚げてきたと言う方もいる。
 自分の中国体験と中国関係の考えなどは、こういうすさまじい実体験をされた人たちの感覚に比べると、まだまだ底が知れるものかもしれない。が、人は入れ替わるのであり、次の時代に向けた、新しい世代の人たちの新しい関係も良好に推移するよう、働きかけは大切なことと思っている。