天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

憲法の学習(2)

 一昨日「憲法の学習(1)」としたので、(2)がなくてはならない。(3)(4)(5)と行くかどうかは、学習の進捗とか意識の問題。ただし、学術論文的に書く必要はないので、色々な切り口で関連事項を書いておきたい。
 まず講演の冒頭に朗読された日本国憲法前文。その最初の文。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
 これだけ読んだだけで、これらの言葉の中に、どれ一つ取っても危ない内容は無く、すべてうなずける。
 冒頭「正当に選挙された」という言葉があるが、伊藤真弁護士はまずここにこだわる。今の選挙制度に基づく選挙では、一票の格差が大きすぎる。鳥取県の人の1票に相当する東京の1票は0.224票分しかない。北海道では0.21票となる。こういう点から、先の選挙に対する違憲判決が各地の高裁で出されている。しかし、違憲違法とか違憲状態であるというような判決では何の効果も無い。そこで最近話題になったのが、広島高裁岡山支部の「違憲無効」判決だ。あの選挙は無効だと言い切ったのだった。この白黒決着はこれから。
 さて前文のその他のキーワードだ。
「われらと我らの子孫のために」自分たちの世代だけ良ければいいのではない、孫子の世代まで世世末長い先までを見通して。
「諸国民との協和による成果」自国の利益だけ考えていては真の幸福は無い。最近はやりの「共生」という言葉はまさに協和による成果なのだ。
「わが国全土」つまり、沖縄も福島も犠牲にしてはいけない。見捨ててはいけない。どの土地に住む人にも等しく自由に活動できる恩恵を受けるべきだ。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」戦争を起こすのは政府だ。私的な立場な人間が勝手に戦争はできない。勝手な暴力行為はまず国内法で取り締まられる。暴力行為を正当化するのは政府だけ。そのことを否定すれば悲惨な戦争は起こり得ない。
「主権が国民に存する」これは今や自明のあたりまえの時代。昔にもどってはいけない。
 立派な前文の第1文ではないか。それに比べて改正草案の前文の最初はこうだ。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、」国の歴史は中国の方がはるかに長い。固有の文化とは何事か。文化の多様性を認め合うことが平和につながる。にも拘わらず固有の文化にこだわるとは。
「国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」天ちゃんは象徴であってもいいが、「戴く」必要はまったくない。
国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」これはいいか。
 さらに比べてゆくと、改正草案の前文の方は、中の条文に述べられる危ない内容を美辞麗句で飾ろうとしているかのようだ。もう少し学習してゆこう。