天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

書評もしくは評論家

 内橋克人氏の「もうひとつの日本は可能だ」と言う本の解説を、佐高信氏が書いていた。佐高氏のことは、なにやら辛口の評論家として知っていた程度であるが、彼はこの本を絶賛している。そして、その解説の中で、長谷川慶太郎堺屋太一竹中平蔵の系列をバブル系経済論者とし、それと対置する論者を城山三郎内橋克人、そして自ら佐高信と位置づけている。
 そうかそうなのか、それならまず手元に買い置いてある佐高氏の本から読んでみよう。と言うわけで読み始めたのが「司馬遼太郎藤沢周平」。読み出すタイミングとしては良かったかもしれない。今日、ここまでで挙げた作家のうち、はまり気味に読んだのは、城山三郎堺屋太一藤沢周平司馬遼太郎、そしてつい最近、内橋さんの経済論を読んでいる。こうしてみると、すなわち佐高氏の分類を当てはめてみると、私は両方の系列の作家を読んできている。読んでみなくては、その作風がどうかとか分からないので、いろいろ読んできたことは良かったと思う。
 それにしても、司馬遼太郎藤沢周平の対置は面白い。どちらも歴史作家として知られているが、司馬氏の視点が上からで、藤沢氏のそれは庶民レベルだという。藤沢氏の視点がそうである点はすぐ納得したが、司馬氏をその視点が上からとしてやっつけている点は、そうなのかと注意深く読んでみて理解できてきた。
 そもそも私が司馬遼太郎を手にしたきっかけは、「街道をゆく」の中国版の評価をしている本を、神田の中国専門内山書店の書棚に見つけてからだ。そこから、「街道をゆく」の中国の道シリーズを読み、小説も読み始めたのだった。初めてその小説を読んで感じたのが、その解説的な語り口だ。今はそれは司馬節とでも受け取って、慣れてしまったが、はじめは違和感があったのを思い出す。書き手が物語の中に入り込んでいず、何か他人事のような雰囲気がしているのがなじめなかった。しかし、「竜馬が行く」とか「坂の上の雲」といった、目下ドラマ化されている作品も読んだし、次は「菜の花の沖」と言う長編を読もうかとも考えている。
 佐高氏の、この両者の比較文学論は司馬氏の小説を読もうとしているところに、水をさされたような気がしないでもないが、すぐに共感はしないにしても少しく実感するところがある。で、もう読まないのかというとそうではない。まだ何冊も買ってあるし、佐高氏の言う視点が読み取れるかどうか検証しながら読むのも面白い。そして、一方の藤沢小説はかつて読みまくったし、家内が今でもはまって、読み続けている。心が落ち着くらしい。
 いづれにしても、小説をこのような観点で評論するのも面白い。そのうち、藤沢小説も読み直してみようと思うが、目下のところは内橋−佐高路線の本を調べなくては。