天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

馬馬虎虎

 馬馬虎虎というのは当て字で、本当は「漠獏糊糊」であろうと司馬氏は言う。
 魯迅は「支那四億の人間の罹っている病気がある、(当時は四億だったのか)それは名づけて馬馬虎虎という。これを直すには日本人の真面目さを学ばねばならぬ。」と書いている。
 字をどう書くかはともかく、魯迅がそのように憂慮するほど、この言葉はいい印象ではないらしい。私がこの言葉を知ったときは、大阪商人の会話で、
「儲かりまっかあ」と問われて、
「ぼちぼちでんなあ」と答える、この言葉のニュアンスと理解していた。
 これは「まあまあです」というくらいの意味で、儲かっていてもはっきりしたことを言わない様子が見える。聞く方も真剣に商売の状況を知りたい訳ではなく、挨拶なのだからこれでいいのだろう。どうでもいいことはさらりと受け流す。それは別にそれほど悪いことではない。
 馬馬虎虎が憂慮されるのは、ひょっとすると本当は重大なことも含め、すべてを馬馬虎虎で済ませてしまおうという態度がよくないと言っているのだろう。
 確かに思い当たるフシがある。待ち合わせの時間を守らないこと、仕事のスケジュールなど意に介さないことなど。自分に甘いだけでなく、他人をも許している。よく言えば大らか。悪く言えばルーズ。
 しかし、この感覚の延長線上に他人をひとまず受け入れる、という一見平和外交的な中国人の性癖があるのではないだろうか。関口智弘さんが、中国のどこへ行っても人々はあたたかかったことを実感していたが、これなど、相手は彼が何者かよくは分からないが、とりあえず「まあよくいらっしゃいました」と歓迎の意を表していたのかもしれない。
 でもそのおかげで、関口さんは感動し、日中友好が促進されるというプラス効果も出ているのは確かだろう。物事には、常にいい面と負の面の両面が存在する。馬馬虎虎的態度もそういうことなのかもしれない。
 魯迅の時代はこの態度のおかげで、中国は散々な目に会いながら、なかなか統一自立国家体制を作ることに苦慮していた時代だ。その焦りがあったに違いない。その後、建国を経て文化大革命では、馬馬虎虎的な許容が無くなってしまった不幸を経験したと言えはしないだろうか。
 で、今の中国では、そして今の日本ではどうなのだ。
 この言葉の意味が私の理解するようなものであれば、物事を推進する態度ではなく、潤滑油としておくのがいいのではないかと考える。