高速道路
先日、久々に東名高速道路を走った。新東名も出来て、混雑はさほど無く走りやすかった。名古屋まで日帰りの法事もかなり楽になった。
道路が整備されて便利になるのはいいが、最近は単純に喜べない。これで誰もが良くなっているのだろうか、ということを考える。
以前なら、自分が便利になって良かった、と思っておしまい。だったのが、今は少し考えてしまう。たとえば、名古屋からの帰りに新東名を走ってみたが、そうすると途中のパーキングエリアがとても立派なものができている。駐車スペースがふんだんにあるだけでなく、売店が綺麗で大型化している。食事のできるお店も色々と趣向が凝らされている。
新東名は山の中を走るので、景色を楽しむという感覚は無い。その代わりにパーキングで楽しく過ごせるようにということだろうか。しかしこれだけの設備を維持するのには相当費用がかかるだろう。それを立ち寄る車のお客の使うお金だけでやってゆけるだろうか。その日が土曜だったし、今は夏休みシーズンなので、子供連れも多かったが、普通の平日にはトラックの運転手さんたちばかりで、さほど客がいないだろう。
設備を作って、そこで働く人を雇う。そこまでは経済の活性化に貢献しているようだが、その経費を維持するだけの売上が無ければ、この設備は持続しない。
また、山の中を大掛かりな道が走ると、一部ではあるがその地域の自然破壊になっている。山に住む小動物たちは、住む世界が道で分断されてしまう。無理して渡ろうとすると車にひかれることも多々あるだろう。
圏央道が東名まで繋がることが持ち望まれている。確かに便利にはなる。しかしその附近の住民にとってはいい迷惑だろう。騒音、排気ガス、日照権の問題などがある。この点について納得を得るのに時間がかかっているのだろうか。
中国の場合、こうした公共事業は実施が早い。民主化のレベルの問題だろうか、住民の権利よりも国益が優先されるようだ。この「国益」が曲者。確かに中国の場合、色々とインフラの整備が急速に進められているが、同時にその関係者が太る度合いも大きいようだ。
日本も、今以上の高速道路の整備は庶民よりも企業の利益の為に行なわれる面が大きいようだ。車を使う個人としては高速道路は便利だが、一旦できると、それまでの一般道路の道沿いのお店には行かなくなる。すたれる街も出てくる。
企業の効率性、利便性を追求することが、一部の一般庶民の生活を犠牲にしている。こういうことが度重なると、本末転倒という状態にならないか。