天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

カムイ伝講義に思う

 カムイ伝講義は、最後は生と死の問題に触れている。人間の体は、生き続けるようにできている。怪我をしたときの治癒力。傷口をきれいにしてじっと時間の経過に任せる。病気も殆どは静かに休むことで治癒にいたる。栄養は必要だが、現代ではむしろ栄養の取りすぎで病気になる。成人病と言われている種類の病気はみなそうだ。動物はみなそういう具合に自然に行き続けようとする体を持っているのだ。
 しかし、人間は自殺をし、人殺しをする。戦争も広くは人殺しの一種。生態系的には生も死も同様だ、という論旨が展開されている。そうかも知れないけれど、人間の社会を考えるときは、自殺と人殺しは別だ。人殺しについては動機が色々で、最近は理解のできない動機さえある。動機なのか単なる衝動なのか分からないこともある。ここではそのことは置いといて、自殺の方。自殺とは、単に社会的に自分の居場所が無くなったと思ったことで自ら命を絶つ。という風にサラリと書かれていた。本来生きるように出来ている人間の体を自ら終わりにするバカがいるか、と言っているように受け止めた。
 マザーテレサは、独り寂しく死に至る人々に幸せな死を提供した。彼女の活動は、誰もこの世にいなくていい人はいない、ということを寂しい人にこそ実感させることだった。そして誰もが必要というのはたぶん事実だろう。事実だろう、と思うのだが、世の中には変なヤツがいる。変になってしまったヤツと言ったほうがいいかもしれない。そういうヤツとは関わりを持ちたくない、と思うのはオレだけか。あるいは人間だけか。サルなら同じように感じるかもしれない。所詮オレはマザーテレサではないのか。
 つまらない事を書いた。話をカムイ伝に戻す。農民の姿を描いたこの本は百姓一揆というものが何であったのか、ということに触れている。これは当時の農民の意思表示であった。この手段を持ってしか自分たちの意思を為政者に伝えることができなかった。このことは、現在の中国の農村で頻発している暴動と似ていないだろうか。彼らも、一党独裁の政権下にあっては、野党を頼ることも出来ず、あれしか方法がないのだ。
 江戸時代の百姓一揆は、一定のルールにのっとって行われた。そこへゆくと中国の暴動はどうだろうか。たまりかねて起こすのだろうが、民族性の違いから様式も少し異なるような気がするが、直接調べていないことには言及できない。
 元のカムイ伝は書かれてから40年になる。40年前といえば、60年安保の時代だ。しかし今現代を見る上でも十分に考えるべき、「人間が生きる」という根本的なことについて色々と示唆している。原本を読んでいないので、「そうらしい」というべきか。機会を得たら原本を読んでみよう。