天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

中国現代文学

 「私の中で突然新しい理解が生まれた。人にとって故郷とは、ある特定の土地だけでなく、果てしなくのびやかな心情なのであり、空間や時間の制限を受けない。そして、そのような心情が喚起されたとき、人はすでに故郷に帰っているのだ。」
 これは現代中国文学の創刊号(冊子)に収録されている短編の1節。史鉄生という人の文章「消えた鐘の音」と題する短編の中の記述。この心情というものは、特定の故郷を持たない私には大いに共感するところである。とすると、自分の故郷は中国の山村であってもいいわけだ。中国の町を歩いて、周りの生き様を見ながら生き生きとした気持ちになり、何かここでできないものかと思うところなど、心のふるさとと言えるのか。少し大げさだが、そういうことがあっても不思議ではない。
 ところで、この史鉄生という人は年齢が私と同じ。文革時代に青少年であり下放も経験している。この時代前後は特に政治的、思想的な本はほとんど書く事ができなかった時代だ。共産党礼賛以外は。80年代以降、「北京ドール」とか「上海ベイビー」などの開放的な女性の文章が出てはいるが、これとて政治色はほとんどない。
 純文学的に捉えれば、それなりの文章がある。しかし、文章の中で1967年という年代や198X年などという書き方をしてあったりする。これは明らかに文革天安門事件の頃のことであることを、示唆している。示唆はしているが、評することはしていない。その時代の中にあって、かつていい暮らしをしていた老人たちが静かに暮らそうとしている様子などが描かれていると、そのような書き方が涙ぐましいと感じてしまうが、どうだろうか。
 史鉄生氏自身、下放時代に足を悪くして今や車椅子生活であるらしい。どうしてそのような体にならざるを得なかったのか、考えるまでもない。悲惨な出来事の被害者であることはいうまでもないのだ。しかし、そのことはどこにも書かれていない。書く事がタブーであり、書きたくもないのかも知れないのだ。中国を離れたユン・チアンは思いっきり書いた。それがワイルドスワンだった。
 そういう意味では、中国の文学というのはこれからだ。まずは純文学しかありえない。共産党一党独裁のもとで、反共的文章が許されるはずが無い。昔のように、革命礼賛の文章など書く必要はないが、物語りをかく以上歴史的な出来事に触れざるを得ない。そこのところを自由に書かせてくれる時がいつ来るだろうか。