天天日記

中国好きのまっちゃんで、書いていたはてなダイアリーを引き継いでいます。

講演録

 昨日行った「みんなの学校」の内容を今度話して、という声が聞こえてきましたが、時間が経つと印象も薄れて忘れてしまうので、メモを見ながら早速少しここに書いておきます。
 メモといっても筆記用具を持って行かなかったので、スマホのメモ機能に指が動く範囲で書き留めた程度。
 まず大阪から来られた木村泰子さん。関西弁で会場にいる人に語りかけるように話してくれました。大空小学校は、一般の小学校で問題児扱いされた子供たちがたくさんいる学校だったようですが、その子たちに対応する心構えや、やることが上手くいかなかった時の考え方が素晴らしい。
 特定の子供を問題児扱いすること自体が問題。問題とする理由は、学校側が生徒はこうあるべきという基準を勝手に決めて、そこに合わない生徒を問題視する。人はそれぞれ個性があるので、皆がみな同じ行動が、各人に適しているとは限らない。そのこと自体を生徒たちも理解するような環境を作ることが大事。そういうことを、「学校が作ったスーツケースに入らない子を排除するのはいけない」という表現で話された。
 そして、何かやって上手くいかないと、すぐに反省して、そういうことが何度も繰り返されると世の中が嫌になることもある。反省だけならサルでもできる。「反省より、やり直す力」が必要という言葉に感心。人間同士のトラブルは学びの材料であり、解決方法は一方的な押し付けではなく「対話」ということも話された。こういうスタンスで、学校経営を明るく続けてこられたという実績があるわけで、これらの言葉は心に浸みる。
 前川喜平さんは、さすが元文部官僚だけあって、教育の歴史に詳しい。今また問題になっている教育勅語はその一言一句を暗記されているようで、こういう言葉が書かれていて、それはこういうことを意味するなどという具体的な説明を交えながら、教育勅語は国民のために書かれたものではなく、国民を臣民と呼び、即ち天皇陛下に従う家来みたいな扱いで、よい家来はどうあるべきかを示したものだというようなことが主旨の話をされた。と思う。
 まさに全体主義思想で、例えば地図上の学校の記号は「文」であるが、これは学校は文部省の出先機関であることを意味している。同様に地図で郵便局が「テ」なのは、郵便局は当時の逓信省出先機関であったため、その頭文字の「テ」が記号化されたもの。
 初代文部大臣は、森有礼であり明治19年の学校令は国の役に立つ人材を作るためのものだった。その流れで明治21年に教育勅語が制定されたが、今みるとこれはまるでカルト文書のようだ、と前川氏は語る。
 国のための国民という考え方は、1941年の国民学校に至ってピークに達する。国民学校は、全員が入ることを義務付けたものでナチスの政策を真似たものだそうだ。そういう時代であっても、私立の学校は存在した。まどぎわのトットちゃんこと黒柳徹子さんが通ったともえ学園がその一例。国民学校になじめなかったトットちゃんを受け入れた学校だ。
 そして敗戦後、民主化教育を基本とした教育基本法が制定される。これが昭和22年のこと。そこから中曽根総理の時代に、臨時教育審議会(臨教審)が作られたが、この狙いは実は憲法改正にあった。憲法改正により、個人主義的な風潮を否とした中曽根は全体主義にもどそうとした。そのためにまじ教育を変えようとしたが。臨教審で出した方針は中曽根の意に反して「個人の尊厳」「生涯学習」「変化への対応」「学習者の主体性」という極めてまっとうなものだった。当時の識者のあり様は、まだ衰えていなかったことがうかがい知れる。
 それが2006年の教育基本法の改正は、戦前回帰の方向でなされてしまった。それでも昨年12月に、超党派で教育機会確保法が可決されたことは評価に値する。
 そして3人目の憲法学者木村草太さん。学校運営に関するいくつかの問題を指摘。
 まず道徳教育について、これは科学的なものでないとそのあいまいさを突く。例として「水からの伝言」の話をされた。水に話かける言葉で、できるこ氷の結晶の美しさが違うというようなこことが道徳教育に使われているらしいが、そんなことはあり得ない。科学的根拠がない。子供たちを洗脳するための科目だ。
 次にPTA強制加入の問題。これは本来は任意加入団体であるのに、加入の意思表示をしていないのにPTA会費を徴収されたり、役員を順番などで決めたりする。それでも入らない場合は、その子供がPTAが行う行事から排除されたりする。大人がする子供へのいじめとなっている。
 また地域活動で、こどもの登下校時にみまもりをする活動がある。我が団地でも、自主防災隊中心にやっているが、ここに変なおっさんが入ってくることがあってもなかなか排除できない。見守りのおっさんによる事件もあったが、そのこと言ってるのだろう。これも問題。
 そして子供の側から担任の先生を選択できない、ということも指摘している。確かにそうだが、それが問題とは気づかなかった。さすが若い学者だけあって、今風に、常に平等の立場だとしたらどうなのか、という考え方で見ればそう言える。ウマの合わない担任に当った場合、こどもは1年我慢するのか。自習室で過ごす選択もありではないか等々。
 そもそも、学校の目的がはっきりしていないところが問題だ。と木村氏は言う。確かに、前川さんが縷々説明してくれたように、戦前の教育は「国の役に立つ人材作る」だった。それが民主主義となれば、学校は「科学的技術の伝達」が目的なはず、と言う。学校は多くを抱えすぎる。部活を強制してみたり、体育祭すら任意参加でもいいのではないか、と言う。
 決めごと、即ち制度だけでは教育はできない。冒頭、木村泰子さんが話されたような、誰も拒まないでお互いを受け入れるという人間性と適切な制度(過剰ではない制度)が相まって人間教育ができるのではないか。
 今まで学校教育について、幸い自分の子供について、通学上の大きな問題が無かったか、知らないでいたかで、あまり考えもしなかったが、こういう時代に孫たちが喜んで楽しく学校に行けるかということは大いに気になる。どう気になるのか。これからの社会を作ってゆく人間育成という視点で、憲法維持、原発反対と同時にウォッチしてゆくべき問題と認識した。前川さんが、求めに応じて全国どこでもで講演されている所以も理解できた。